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旅行事業者向け情報
殿様の墓

殿様の墓

富永重吉は、先祖が宇多源氏系佐々木氏庶流富永で、六角家に仕え六角家滅亡後、北条氏に仕官しました。数々の勲功を立てましたものの、豊臣秀吉に敗れ・北条氏直に従い高野山に登られました。その後、徳川家康により朝鮮の役に召され、兵法、武術に秀でた重吉は、文禄3年(1594年)に都筑郡早野村250石の地を賜り、早野の領主として地を治められました。以後関ヶ原の合戦(1600年)、大阪夏冬の陣(1614・15年)に参加し、屋敷奉行や御鎗奉行として歴任した大旗本であった。1646年12月16日96歳で亡くなり、戒翁寺に埋葬されました。現在もそのお墓は殿様墓として残っております 殿様墓(四基の五輪塔) 都筑(つづき)郡早野村の領主であった冨永重吉の一族が眠るお墓である 初代重吉(しげよし)、夫人(北條家の臣高橋和泉守秀治が女)、二代重師(しげもろ)、三代師勝(もろかつ)の四墓 (四基の墓塔右側より) 戒翁寺の開基である主膳即ち重吉のお墓 安山岩製の五輪塔は、高さ222㎝もあり台座は別石ではあるものの、1つの石より五輪が造られているようです。正面にそれぞれ「空・風・火・水・地」の梵字である「キャ・カ・ラ・バ・ア」と刻まれております。 【富永主膳源朝臣安吉 芳林院殿喜翁宗歡居士 正保三丙戌年十二月十六日】と刻まれ九十六歳で亡くなる 二番目のお墓は、重吉の三男である師勝の墓塔です。高さ185㎝程 丸い水輪の球は上下に切られて造られている 【高雲院殿昌岳良繁居士 寛文十二壬子年霜(11)月十九日 (左側)冨永孫左衛門尉泰賢】と刻まれ五十六歳で亡くなる 三番目のお墓は、重吉の妻の墓塔です。重吉のお墓同様に一つの石で造られる 【常姓院殿妙祐禅定大姉 寛文元年七月九日没】と刻まれていたようである歳は不明 四番目のお墓は、重吉の長男である重師の墓塔です。 師勝の五輪塔同様にそれぞれ別の石で造られている 【靈松院殿無岸鐵心居士 寛文二壬寅年極(12)月廿八日 (裏面)御鑓奉行冨永主膳正源光忠 六十歳丙極月廿八日卒】と刻まれ六十歳で亡くなる

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料金

無料

アクセス

小田急線 柿生駅

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